| 聞き手 |
米朝師匠が入門されたときに活躍されていた立花家花橘というお師匠さんがいらっしゃいましたね。 |
| 米朝 |
これはもう私は稽古してもらったことはなかったけども、後の(五代目)文枝になった、当時あやめちゃんと春團治君なんかも、ようこの人に稽古してもらうてましたわいな。 |
| 聞き手 |
稽古台としては非常にいい。 |
| 米朝 |
10回喋っても狂わんような人でしたからね。 |
| 聞き手 |
あ、ちゃんと |
| 米朝 |
だからうちの師匠「味がないんや」とよう言うてましたけどな。 |
| 聞き手 |
(笑)ご存じない方もいらっしゃると思いますんで、二代目立花家花橘師匠の『酒の粕』がございますので、ちょっと聞いてもらいましょう。 |
| 米朝 |
はい、はい。 |
| |
(レコードから二代目立花家花橘師匠の『酒の粕』を) |
| 米朝 |
これは昔のSPレコード1枚の裏表に入ってる... |
| 聞き手 |
ですね。昭和6年の... |
| 米朝 |
あ、さよか。ははぁ〜 |
| 聞き手 |
ようやってはったんですか? |
| 米朝 |
まぁ〜短い噺やからね。こんなもんだけでは(高座を)降りられへんけど。だいたいあの人は分かりやすい口調で、レコードで大変喜ばれたんですよ。初代の春團治てな人はもうちょっと不明瞭な、そこがまた味やったんやろうけどね、この人は本当に判子で押したような楷書のお喋りをする人でしたさかいな。 |
| 聞き手 |
初代の春團治という方に次いでレコードの吹き込み数は、上方で2位だそうですね。 |
| 米朝 |
分かりやすいし、その時分の「ザーザー」いうような昔のレコードでも、非常に明快ですわこのお方はね。味がないとよう言われたんやけどな。ネタの数は多い人でしたよ。芝居噺がかったものもわりとようやっててね『綱七』という珍しいもん、それから『蛸芝居』やとかね。芝居がかった噺は結構レコードにも残ってると思いまっせ。 |
| 聞き手 |
後この人『文人踊り』というのをやってはったんですか? |
| 米朝 |
まぁ〜そんな名前を付けたんですがね。ようするに滑稽な踊りなんですよ。一文銭に糸を付けたやつを鼻の頭にあてごうてね... |
| 聞き手 |
あの安来節の汚れみたいなやつですね。 |
| 米朝 |
そうそう。それがなんで『文人踊り』かと言うと、『文人画』というのが大正時代に流行ったんやね。それと同じカッコをしてね、滑稽な顔にして、『文人画』というポーズを所々でとってみせるんですわ。で、カッコ決まってみせるとそれがマンガ的な面白さになったんでね。本人さんはやってましたけどな。もうそんなもんも喜ばれんようになったんで、普通の踊り。ちょい滑稽な踊りを踊ってました。 |
| 聞き手 |
師匠は全然お稽古には通ってらっしゃらない? |
| 米朝 |
私はないんです。というのは一つはうちの師匠がこの花橘さん、あんまり好きでないんでね(笑) |
| 聞き手 |
なるほど。それでは行けませんわね。 |
| 米朝 |
そやから行きにくい(笑) |
| 聞き手 |
「なんで花橘んとこへ行ったんや」ちゅうことですよね。経歴見ましたら、明治17年徳島のお生まれやそうです。 |
| 米朝 |
あ〜、そんなもんでっしゃろな〜。 |
| 聞き手 |
明治32年に大阪に出て来られて、34年に初代笑福亭福松というお方の門下にお入りになって... |
| 米朝 |
福松っつあんのとこへ行ったんか...一奴(いちやっこ)言うてたんだよね。 |
| 聞き手 |
それで福松さんのところから五代目林家正三という方のところを経て、二代目桂文團治さんのところへ。そのときに桂一奴。 |
| 米朝 |
文團治という人は一種の親分でね、来たるを拒まずで、仰山弟子がおったらしいけどな。 |
| 聞き手 |
大きな一門だったんですね。 |
| 米朝 |
そうなん。だけど全部教えたりはしてないんですよ。 |
| 聞き手 |
はぁ〜、身内みたいなもんですか。 |
| 米朝 |
身内やね。ようするに一門が増えることを喜んだ人で...。 |
| 聞き手 |
で一奴になってすぐ上京されて、およそ10年間東京にいらっしゃったときに立花家橘之助さんの門下に... |
| 米朝 |
橘之助さんの一門に入ってね、立花家花橘になったんですけどね。 |