| 米朝 |
大阪の寄席へ東京の人は必ず来てましたよ。ミナミやキタの花月へね。 |
| 聞き手 |
当時どんな方がいらしてたんですか? |
| 米朝 |
特別の存在は柳家三亀松さんですな。あの方は再々発売禁止になったりしてやね、売れたのは戦争前ですからな。 |
| 聞き手 |
『新婚箱根の一夜』とか... |
| 米朝 |
あれは発売禁止になったんで有名になってね、それで三亀松という存在が知られるようになったきっかけやったと思いますわ。当時発売禁止言うたら、厳重やさかいね。今から考えたらたいしたことないんですわ。 |
| 聞き手 |
そうですよね。ああいう男と女の掛け合いで「アハァ〜ん」とか言うてはったんですか? |
| 米朝 |
それは、レコードの方がむしろはっきり出てたんやないかと思うんですわ。あの人は顔芸をやったんですよ。大河内伝次郎。たんに大河内をやるんでなくね、小唄勝太郎の顔をするんです。 |
| 聞き手 |
あの『島の娘』の... |
| 米朝 |
おちょぼ口にしてね「この顔を少しずらしていくと大河内の顔になる」と言うてね。それから立ち上がってね、肩揺すってね、足をちょっと斜めにして、そこでクンパルシータになるんです。 |
| 聞き手 |
ほぉ〜、洋楽ですね。 |
| 米朝 |
南北の花月にはピアノがありましたんや。そのピアノを弾いてたのが江利チエミのお父さん。あのメロディーみんな知ってたんやな、そこで手(拍手)が来たりしましたよ。あれ流行ったんですよ、すぐ戦争になって御法度になったけどもね。非常に新しい演出をやってたんですな。 |
| 聞き手 |
そうですね〜。都々逸は僕が最初に見たときは立ち高座でしたけど、最初は座ってた...? |
| 米朝 |
座ってた。あれ戦後ね、広い所でやらなならんようになったし、袴を付けて...、それで立ち高座になってしまいましたけどね、寄席はずっと座って出てました。 |
| 聞き手 |
そうですか。 |
| 米朝 |
戦後、東京の寄席に出てたときは私、知りませんのや。座ってやってたんか、立ってやってたんか。 |
| 聞き手 |
柳家三亀松さんの他は? |
| 米朝 |
その頃は(柳家)金語楼さんは滅多に来なくなったけど、年に1回は来てたんかな。でね、来たら働かすんですな。南北の花月だけでなくね、京都も一軒まわらしたりね。 |
| 聞き手 |
掛け持ちで。 |
| 米朝 |
自動車付けてたんでしょうな。 |
| 聞き手 |
ほぉ〜。 |
| 米朝 |
やっぱり別格の存在になってたね。 |
| 聞き手 |
噺家さんでは? |
| 米朝 |
四代目の小さんとか柳橋さんとかね。 |
| 聞き手 |
この間亡くなって柳橋さんですね。先代ですね。 |
| 米朝 |
今から言うたら、先代になるかな。それから柳好さん。 |
| 聞き手 |
非常に調子のいい、三代目(春風亭)柳好さん。 |
| 米朝 |
それから当時の林家正蔵、三平ちゃんのお父さんですな。 |
| 聞き手 |
七代目の正蔵ですね。 |
| 米朝 |
(八代目桂))文楽さんなんか来てましたよ。 |
| 聞き手 |
で、それをご覧になって昭和18年に東京の学校にお行きなって... |
| 米朝 |
向こう(東京)の普通の寄席でやっぱり結構な顔ぶれでしたよ。 |
| 聞き手 |
大阪の寄席とは雰囲気違いましたか? |
| 米朝 |
仰山出まっしゃろ、東京はね。二十何ぼ出るんや。こっち(大阪)は14〜5や。高座時間がやっぱり20分ぐらいとりますわな。東京の普通の寄席の掛け持ちは、忙しい人は12〜3分ですわ。責任者的な位置に出てる人は15分ぐらいやった。 |
| 聞き手 |
短いですね。 |
| 米朝 |
トリでもそんなもんです。志ん生さんがぼちぼちと売り出してきた頃でね。志ん生を継いだ頃やったと思いますね。それから根岸の文治、柳橋、今輔、小文治。小文治さんはもちろん短う喋って立ち上がって、踊りで勝負してました。 |
| 聞き手 |
その当時から踊りがメインだったんですね。圓生師匠はどうでした? |
| 米朝 |
ぼちぼち「この人は上手い」と言われかけてた頃ですな。圓蔵から圓生になったからね。三升家小勝という人がね特別な存在で、鈴々舎馬風(先代)なんて人は小勝さんの真似ばかりやってました。 |
| 聞き手 |
師匠どこの小屋にお行きになったんですか? |
| 米朝 |
そりゃもう新宿の末廣亭であり、上野の鈴本であり、人形町の末広。人形町はね友達が店やってたりしたんでね。河豚屋でしたけどね。 |