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〜今週はゲストに231年ぶりに歌舞伎の大名跡を襲名されました、中村鴈治郎改め坂田藤十郎さんをお迎えしました。聞き手は大阪ABCテレビのプロデューサー市川寿憲です〜
米朝  半年以上経ってのんやけど、しかし慌ただしかったでしょうな。
藤十郎  大変厚かましいことを言いますやけれど、昔から私は『藤十郎』という名前になりたかった。憧れた名前ですからね、ならしていただいてもね、それを継いだとか何とかよりもね、夢が叶うたという気持ちやから、嬉しさだけが前に出てしもうてるからね、襲名で忙しかった、そういう気があまりせんのですわ。
米朝  前からあんた、言うてはりましたな。
藤十郎  (笑)はい
米朝  だけど何年、間が空いてたんですか?
藤十郎  231年ぶりて言いますんやけどね。これまた厚かましい話で、「あいつ厚かましいやつだ」とお思いになるでしょうけど、私、四代目なんですけど、「四代目と書かんといて」と「なんでですか?」「それは二代目さん、三代目さんに大変申し訳ないんだけども、初代の坂田藤十郎さんに憧れた。だからその方のお名前をいただいて頑張ろうと思うてるんのやから」と松竹さんに申し上げたら「なるほど」と。で、今度の襲名には何代目と書いてないんです。変わった襲名ですけどね(笑)だから231年ぶりと違うて、初代が亡くなって298年目ぐらいなんです。もうちょっとしたら300年。だから300年ぶりと言うてくださったほうが私は嬉しい。
米朝  なるほどな。
聞き手  初代の藤十郎という方が1709年に亡くなられているんです。本当に歌舞伎をお作りになった方ですね。教科書でよく出て参りますね、江戸時代の東京の團十郎、関西の藤十郎と。
藤十郎  和事芸というの作りはったんは初代さんですから、その芸風なり、心意気みたいなものを継ぎたかったわけですからね。
米朝  これを復活さそうという話は、ずっとなかったんですか?
藤十郎  無かったんでしょうね。20〜30年前ですか、近松座というのを20数年前に結成して、その前ぐらいに父と喋っておりまして「坂田藤十郎を継ぎたい」という話を父にしましたんですよ。そしたら「お前、わしの親父の真似してんのか」と言うんですわ。「え!! 何のことですか?」「なんや知らんのか」言うから、「知らんというよりなんですか」と父に聞きましたら、初代鴈治郎、私の祖父がね、菊池寛先生の『藤十郎の恋』という作品を初演でやりました時にね、父もその芝居に出てたそうです。初日から千秋楽まで楽屋で嬉しそうな顔をして、ニコニコしてるんですって。
米朝  へぇ〜
藤十郎  新聞にも『当代の藤十郎は中村鴈治郎である』と書いてあったんですって。ただ祖父は「藤十郎になりたい」という言葉は言わなんだけど、あんな嬉しそうな顔を父は見たことが無かったと。だから祖父はきっと藤十郎を継ぎたかったんやろうと。「それを聞いてお前真似してんやろ」と言うんです。それは全然知らなかったですわ。私(藤十郎)は上方歌舞伎の芸を作った人やし、今はだいたい江戸歌舞伎の演出が多い。上方歌舞伎の演出と両方あるということをこれからはっきりさすために、『藤十郎』という名前が出て来た方が...というつもり継ぎたいんです、と言ったら「ふぅん、そんなこと言うてるけど、ほんまはやっぱり聞いたんやろ」と...
米朝  (笑)なるほどね。せやけど、おじいさんのおかげで『鴈治郎』という名前が『藤十郎』に匹敵するぐらい大きな名前に...
藤十郎  その通りです。父が亡くなりましてね、『鴈治郎』という名前がなくなりまして『鴈治郎』を襲名したらどうかと、松竹の永山会長が私に言ってくださった時に「いやー実は藤十郎を継ぎたい」「君がそう言うのはよう分かっとる。分かってるけれども、だいたい歌舞伎役者の家というのは自分のお父さんの名前を継いで、家を継ぐというのが一つの決まりだし、世間の人は藤十郎より鴈治郎の方が大きい名前だと思ってる。そやから鴈治郎を継いだらどうや。それから藤十郎を継いだらええやないか」と言われて、「その通りだ、継ぎましょう」と言ったけれども、それが還暦前なんですよね。
米朝  は、はぁ〜
藤十郎  「はい」と言ったけれども「ちょっと待てよ、これ2〜3年ですぐ変えるわけにも...」
聞き手  (笑)
藤十郎  「どうなるかいなぁ〜...」でも気持ちはちっとも変わらなかったんですよ。そしたら歌舞伎400年という大きなイベントがありましてね。その時に名優の名前を集って襲名しようやないかという松竹の考えがありまして、その時に永山会長が「どうや、藤十郎継いだら」と言うてくれたんですよ。去年の顔見せで京都からさせてていただきましたでしょ、京都でね、大きな名前を(最初に)襲名するの、この頃ないんです。たいていこの頃は、東京から・・・。藤十郎というのは京都の、上方の役者。それも一番大事な先祖の、神様のような方ですよ。やっぱりそれを襲名するのなら、京都からさせてくれと永山会長に言うたらね、「そりゃそうや、分かった」と、松竹さんはじめ、皆がその気持ちになってくれましてね盛り上げてくれたもんやから、余計いい形になりました。
米朝  屋号が無かったんですな。
藤十郎  そうですねん。その時分、元禄時代は屋号というのは無いんですよね。そやから、京都やから『山城屋』と言うのはどうだろうと皆さんで相談いたしましてね、そうさせていただいたんですけど。
聞き手  初代の藤十郎というお方は、分からないことが多いようですね。
藤十郎  藤十郎がこう言ったということは残っているんですが、作品はほとんど(残っていない)。『傾城仏の原』『傾城壬生大念仏』・・・を、近松座では復元ということでさせていただいたんですけれど、それも実際残ったもんじゃなくて、こういう台詞を言うた所がよかったという『絵入狂言本』を元にしてさせていただきました。結局、合方(伴奏音楽)をつかわない台詞劇でしたんですがね。近松が書いた言葉をちゃんと自分の発声法でやったんですがね。それまでは考えてみると歌舞伎というのは綺麗な踊りだけやったんを、台詞とストーリーをちゃんとつけてやった最初の人ですね。だから世間もビックリしただろうし、台詞もうまかったから一人で20分も30分もやったんですね。せやからね、『河庄』の治兵衛でね、治兵衛が兄の孫右衛門に語る所は藤十郎の独り語りのものがずっと続いて来て、ああなったんやと私は思うんですけどね。
米朝  はっきり言うて、それは誰にでもやれるこっちゃないな。

聞き手  藤十郎さんと米朝師匠の最初出会いは?
米朝  映画でね、私軽い役で、こちら(藤十郎さん)主役で...
聞き手  昭和32年の『女殺し油地獄』というのがありますが...
米朝  あれあれ。あれがどうも最初やった。堀川組でね。
藤十郎  そ〜でんな。いや〜懐かしいこと言うてくれはる。(監督の)堀川(弘通)さんは黒澤明さんの片腕どころか両腕の、黒澤組のベテラン中のベテランですよね。あの時にね、最初の所の雰囲気を出すのにね、「扇雀さん、大阪の雰囲気出さないかんから、大阪行って人探し来るわ」と監督が言うんですよ。「どうぞそれはいいように...」て言ってたらね、「いい人見つかった。雰囲気出る。桂米朝さん。それに芦屋雁之助さん、芦屋小雁さん。これでいこうと思ってる」と、喜んで帰って来たんですよ。
米朝  へぇ〜。
藤十郎  ご存じないでしょうけどね。
米朝  いや〜、それは喧嘩場があったりして、ややこしい。ちょっと捨て台詞でもこっち(大阪)の言葉でいきたいと...
聞き手  米朝師匠はどんな役だったんですか?
米朝  私は太鼓持ち。
聞き手  その時のお相手お吉が新珠三千代さんで、妹のおちかが香川京子さん、義父役をお父さんの二代目の中村鴈治郎さん、お母さんが三好栄子さんでした。
藤十郎  映画というのはカット、カットやるんだろうけどね、あの人(堀川監督)は、全部台詞覚えてて、芝居みたいに、舞台稽古します、セット組んどいて。黒澤組というのはそうらしいんですけどね。でね、面白い話があります。(この芝居で主人公は)義父に対しては良い感情持ってませんよね、怒られた時に算盤で義父を殴るんですよ。そのシーンが来たらちっともカメラ廻してくれないんですよ。(監督に)「どこがいけないんですか?」「あんたね、本当のお父さんだと思って叩いてる」「そんなことないですよ」「もっとなんで憎く叩けないんですか?」「やってんだけどなぁ〜」で今度は逆にね、義父が私を踏みつけて殴る所ある。これも廻さない。「鴈治郎さん、叩き方が甘いですな。もっと強く肩が腫れ上がるぐらい叩けませんか?」「やってます」「どうも本当のお子さん叩いてるようだ」と言って廻さないんですよ。本番終わったら腕上がらへん。
聞き手  (笑)
藤十郎  普段、本当の親子で殴られたことないし、あの時だけで、いやというほど父に殴られましたよ。
聞き手  その映画の時に(おふたりの)親交が深まったというか...
米朝  絡む所はなかった。
聞き手  じゃあ一番ご親交が深くなるのは、昭和38年の上方風流(かみがたぶり)あたりですか?
米朝  そうやね。
藤十郎  そうですね。
聞き手  あれは関西で活躍する40歳以下という条件がついてたんですね。
米朝  一番最初ね。40歳未満をということになって河内屋がね「なんでわしを入れてくれへんねん」「あんた40越してる」って(笑)
聞き手  三代目實川延若さんですね。
藤十郎  ギリギリの人が多かったですからね。
米朝  もう37,8,9...
藤十郎  でも上方風流のおかげで、それからずっと親交を厚くしていただいたから...
米朝  若かったせいもあったけども、ずいぶん無遠慮にね、失礼なこともありました。
藤十郎  いや、いや、それは...。今でも一番懐かしいですもん。
米朝  あの時分のメンバー。
藤十郎  もう半分以上、違うとこへ行ってしまいましたからね。

聞き手  『上方風流』というのは具体的に、まず雑誌が出ましたね。普通の活動はどんな活動だったんですか?
米朝  時々集まってね、飲んでね、アホなことを言おうという...
藤十郎  1,2回、公演しましたね。珍しい組み合わせというかね、吉村雄輝さんの梅川でね、私が忠兵衛をさしていただいてね。
米朝  太夫も何も皆おりますから、そういう時は出がそろうし、はっきり言うてちょっと気安うに頼まれへん人にでも「ちょっとこれやって〜な」(笑)とかやれるような雰囲気やったからな。
藤十郎  上方をどうかしようかという、そんなつもりはなかったような気がするんやけどな。
聞き手  たんに集まって、近況報告して、お酒飲んで...
米朝  結果的にそんなことになったか知らんけど、そんな大層なことは考えてなかった。遊びの続きやった。
聞き手  そう言う集まりの時にも藤十郎を継ぎたいなという雰囲気は、ひしひしと米朝師匠は感じていらしたんですか?
藤十郎  言うてましたかな〜
米朝  なんかの時にね、そういう話が出たように思う。『坂田藤十郎』という名前を聞いた時に意外ではなかったですな。前から聞いてたような気がしてた。
藤十郎  言うたような気もします。

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