番組ロゴ放送内容

4月1日第49回
4月9日第50回
4月16日第51回
4月23日第52回
4月30日第53回
5月7日第54回
5月14日第55回
5月21日第56回
5月28日第57回
6月4日第58回
6月11日第59回
6月18日第60回
6月25日第61回
7月2日第62回
7月9日第63回
7月16日第64回
7月23日第65回
7月30日第66回
8月20日第67回
8月27日第68回
9月3日第69回
9月10日第70回
9月24日第72回
1月14日第88回
1月21日第89回
1月28日第90回
2月4日第91回
2月11日第92回
2月18日第93回
2月25日第94回
3月4日第95回
3月11日第96回
3月18日第97回
3月25日第98回
スペース 4月30日第53回
〜昭和9年、『後家殺し』こと初代桂春團治が亡くなると、上方落語は漫才の勢いに押されて長い冬の時代に入ります。そこで五代目笑福亭松鶴が中心となって、上方落語を後世に伝えようと昭和11年から49回にわたって出版されたのが雑誌『上方はなし』です。当時五代目松鶴の片腕となって、この雑誌の編纂に関わったのが米朝さんの師匠四代目桂米團治でした。今週のよもやま噺は上方演芸の研究家としても名高い米朝さんが、今も残る上方落語の貴重な文献について語ります。〜
米朝  4月3日の産経新聞に『五代目松鶴大入帳』という記事が載ってましてね。この「大入帳」は先代の五代目(松鶴)さんの所にあった物で、私、実は昔々ノートに内容を写し取ったことがありますねん。五代目さんの弟弟子に当たる、上谷鶴三さんという人が字がうまいんで清書し直して、さらに私が大学ノートみたいなとこへ写してたんやけど、ま、貴重なもんです。これが何かの機関に保存されたら結構なことやと思います。
聞き手  五代目松鶴という方は「上方はなし」という雑誌を戦争中に出版されて...
米朝  そうです。紙がもう手に入らんようになるまでね、出し続けてました。初めの頃は「家にこんなもんがあるで」と写真なんかが集まってきてね。いや本当にあの時のあのお方がこれをしはったおかげで残ったという物も沢山あります。今里の(五代目松鶴の)家は空襲には遭わなんだんでね、あそこにはいろんなもんが残ってました。
聞き手  でもその大入帳を拝見して、600ネタが書いてあって、今では分からないネタもあるわけですよね。
米朝  それはね、題と下げが書いてあるだけやから。
聞き手  (貴重な資料といえば...)芝居噺の文我さんの出演(出席)控えですが...
米朝  あれはね、東京で売り飛ばされたりいろんなことがあって、1冊だけまだ分からん...
聞き手  ないんですね。あれも文我さんという方が地方に行ってこの席にでて...
米朝  割まで書いてある。「割り」というのはつまり出演料や、その日こんだけ金が上がったさかいこういう風に分けたという、心覚えでチョッチョと書いてあるだけやけどね、仲間内が見たら分かりますわ。また囃子の名前まで書いてあるしね。
聞き手  (当時でも珍しい...)芝居噺をされますから(しっかりした)お囃子がなかったら困るわけですね。
米朝  所々数字が書いてあるのはお客の数やろと思うねん。残念なことにね、入場料が書いてないねん。
聞き手  控えを書いていたのが大正ぐらいですよね。
米朝  宿屋の女の名前なんかも書いてある。「これは必ず因縁のあった奴が書いてあるんやろう」と言うてましたけどね。しばらく続いたとか何とか(笑)
聞き手  上方落語に限定しても、こういう噺家さんが残した資料は本当に少ないんですか?
米朝  少ないですなぁ〜。ま、「上方はなし」を五代目が出してくれはったんで、あれにはいろいろな物が載ってますわな。
聞き手  あの(出版された)間は吉本の寄席には、でてなかったんですよね。
米朝  そう。上方落語研究会なんかをこしらえて、独自のやり方でやってた時分ですわ。
聞き手  聞く所によると、吉本さんが漫才を偏重しすぎると...
米朝  どう思うてたんかなぁ〜。私それから林正之助さんと対談しましたが、あの人は漫才を大事にして、「これからはこれや」とそれはその通りなんやけどね、落語は滅びてしまってもええというふうな...? ま、私やからそういう言い方ではなかったですよ。「君らみたいな若い人がでてきてな、こういう風にあるのは結構なこっちゃ」という意味のことを言うて、ただ、(戦後に)キタの花月(うめだ花月)の楽屋で、袖みたいな所で腰掛けてね、「こっちの落語がもういっぺん銭になるとは思わなんだな」って、独り言みたいに言うてたことがありました。
聞き手  正之助さんなればこそですね。これも聞く所によりますと、五代目師匠はそこそこのお給金貰うてはったみたいですね。お給金が安いからお辞めになったんやなしに、仲間の扱いが、あまりにも悪いと...
米朝  それから(二代目)林家染丸さん、おトミさん(林家トミ)さんの旦那さん。晩年、おトミさんが頼んだんよ。ほならヘタリに、つまり鳴り物方になら雇うてくれるという。
聞き手  吉本が...、へぇ〜。
米朝  そりゃもう高座に出したって、売りもんにはならなんだでしょう。どのくらい給料くれたか知らんけど、さすがにおトミさん、それは断ったらしいわ。
聞き手  ま、言えば大師匠ですもんね。ご高齢としても、それはちょっとね...。あの「上方はなし」をほとんどお書きになっているのが米朝師匠の師匠、桂米團治師匠だと聞いていますが。
米朝  そりゃ沢山書いてます。そやけど全部ではない。でもはっきり言うて、あんなもん誰もやる人おらなんだ、克明に書き写したりするようなね。
聞き手  また挿絵が面白いですよね。
米朝  あれはね、怪談で有名な(三遊亭)志ん蔵さん。あの人の絵ですわ。でも他に2人ほどおりまんねんけど、絵描きさんは1人もおらん、みんな素人が慰みに描いた絵なんや。それが面白い、じつに面白いですね。
聞き手  昔、三一書房から復刻されまして、49回、上下巻で。亡くなられた三田純市先生が解説していらして。現在市販はされていませんで、古書市で、定価は上下巻で1万5千円なんですけど、だいたい15万ぐらい。
米朝  へぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜。また活字にしようという人は当分でないでしょうけどな。
聞き手  僕は学生時代に買いましたけど、やっぱりその当時のことはなんにも分かりませんが、四代目米團治師匠が「親父よゆるせ」と三代目米團治師匠のことを書いている所とか...
米朝  あれ、連載されてましたな。
聞き手  あれ、非常に面白いですね。
米朝  面白いですね、あれはね。うちの師匠も絵は面白かったですよ。文章もなかなかしゃれてましたけどな。
聞き手  そういう意味では才人ですね。

聞き手  (四代目)米團治師匠は昭和10年ぐらいに上方の噺家がだんだん漫才に押されて仕事もなくなってきたんで、代書屋でもしようということで...
米朝  あれはね、やっぱり「上方はなし」という雑誌を五代目(松鶴)が出して、あれを手伝うということで...あの雑誌も儲からへんからね。
聞き手  売れれば売れるほど赤字だったらしいですね。
米朝  (笑)そうかも分からんな、やっぱり古いお客さんとか、落語の好きな人とか、定期購読者に何十人かがなってくれたんです。で、代書の看板上げてましたからな、「中濱代書事務所」と言う。近所が区役所ですからな、頼みにくるんですちょいちょい...。間違うて入ってくる奴が(笑)ほならね、字がうまいからね、「ちゃんとした字がいるんやったらあそこへ行きなはれ、きれいな字を書く」と。書式のことなんか聞いたって分からへん(笑)表彰状とかね、そんなもん頼まれてた。ほんま言うたら代書屋ちゅうのはね、ややこしい仕事ほど儲かるんですよ、土地を測量したり登記したりという。そういうもんは他へ廻すんです。それできれいな字の必要な時は向こうからこっちを紹介してくる(笑)
聞き手  物々交換みたいなもんですね。
米朝  ただおかしかったのは、代書屋なんてとうに辞めてしまってたのに、税務署が代書屋をやってるとして、税金が来まんねん。「やってへんやないか」と「いや、あんた廃業届出してない」だいたい営業届けも出してないのに、廃業届をなんで出さなならんということで(笑)「ほんなら差し押さえてくれ」ろくなもんあらへんしね。差し押さえたやつを落とした人がおんねん。古書店か古道具屋やろうね。で、落とした人が困ってしもうたん、銭になるもん何にもあらへん(笑)
聞き手  なるほど、「らくだの家」みたいなもんですね。米朝師匠が最初に米團治師匠の所へお行きになった時には、まだ代書の道具はあったんですか?
米朝  机と法令書みたいなもんが...。複写に使うカーボン紙がいくらか置いてありました。

〜後半は桜川末子、松鶴家千代八、かつて一世を風靡した女性漫才コンビについて振り返ります。〜
聞き手  今日は懐かしい桜川末子さんと松鶴家千代八さんの数え歌をまずはお聞きください。
  (レコードから)
米朝  人間もこういう気っ風の人でしたし、やっぱり年でしたからな、楽屋で座ってる時はほんまにおばあちゃんみたいな感じやったけどね。
聞き手  高座に出ると違うんですな。
米朝  もう、こんな気っ風のええ人はちょっとなかったですな。「ミナミでは佐賀梅、新世界ではダイジョカン、ジャンジャン町では末子じゃい」てな調子でな(笑)
聞き手  大正時代に桜川末子、花子で一世を風靡するんですね。お得意は江州音頭でしたから、ネタのどこかには必ず江州音頭がありましたね。
米朝  音頭(盆踊り)の時期になるとね、本当の音頭をとってる盆踊りの所へ頼まれるねん。その時分にはマイクありましたけどね、昔、マイクの無かった時分は、こっち向いて歌うて、今度あっち向いて歌うて「こっち向いてくれ!!」と(お客さんが)言うとそっち向いて歌うたりしてね。ぐるっと回った。
聞き手  ちょっと鼓を叩く時に「女捨丸」と言われてましたね。先ほど聞いていただいた数え歌も、作家が書いたのを2つ分足すんですってね。
米朝  ほっほっほ、テンポが速いさかいな。

聞き手  これまたレコード残ってますけれど、最初に組んだコンビの方なのか、ご主人なのか分かりませんけど、上(連れ合い)の方が非常に厳しい方で、昔40分高座だったんですって、それを35分で下りると凄く怒るんですって、「さぼってる。お前手抜いとる」と。45分やると「お前ようやった」と言われる。で40分高座2回。吉田留三郎先生が仰ってたと思いますけれど、近鉄バッファローズか、阪急ブレーブスかのファン感謝デーに呼ばれたんですって、でもおばあさん2人ですからね。みんななんでこんなの出てくるんやと思うたらしいです。そしたら野球の数え歌があるんですよね。それをやって、最後やんやの喝采で下りたらしいですよ。今のラップよりもテンポが速くて滑舌もいいですよね。
米朝  あのテンポの速さね、どんどん、どんどん速うなっていくんやからな。
聞き手  数取らせないんですからね。で先ほどのレコードが昭和48年の角座の音なんですよ。末子さんは明治38年のお生まれ...
米朝  丑年やったことは覚えてる。
聞き手  昭和49年に新花月で引退の高座を1日だけやって、その時に春蝶さんが司会でね、(柳家)三亀松先生と楽屋が一緒になったことがあったんですって、それまで三亀松先生は“ワカサ・ひろし”のひろしさんに「ひろし、ひろし」とえらそうに言うてたくせに、末子師匠には、「師匠、師匠」と言わはったんですって...
米朝  へぇ〜
聞き手  「あの三亀松先生が言うてはるんやから、よっぽどえらい人やな」と言うてました。やっぱりそれぐらいの貫禄はありましたですね。
米朝  そうですよね、それに決して威張ったりせえへんしね。
聞き手  知らんお客でも最後は掴んでいはりましたね。
米朝  全盛のとき、末子はんが出なんだら、客、帰れへんのやて。そやさかいね、ちょいちょい客がかぶってきたら出されるんや。
聞き手  あっ、早いこと回転させようと。それだけの達人が女性にいたということですね。
米朝  またこの人は特別な存在やったと思うわ。若い時、べっぴんやったと思うわ。
聞き手  あぁ〜...。僕ら見た時はね〜もうそうとうの...。女性2人のコンビでというのは当時は珍しかったかも分かりませんね。
米朝  だいたい民謡一座みたいなとこにもこの人借りられて、行ってたらしいですね。
聞き手  元々「桜川」ですから音頭取りから始まってるんですよね。
米朝  お父さんは家元やったと思うわ、確か。
聞き手  江州音頭の。
米朝  河内音頭から漫才師になってる人もあったやろうけどね、たいがい江州音頭やね。
聞き手  明治時代に河内音頭というのはそんなに...
米朝  そうやね、新しいもんやからね。
聞き手  昔の河内音頭を聞くと地味なもんですよね。念仏踊りですよね。
米朝  テンポも遅いしね。
聞き手  鉄砲節という物が出てくるまでは、ノンビリしたもんだったんでしょうね。
米朝  そうですね。
聞き手  「鉄砲光三郎」売れはりましたね。
米朝  仰山レコード出してたな。角座なんかに出たら売店で並べてた。
聞き手  あの人も八尾かどこかで、公務員されていた方ですね。
米朝  あ、さようか。
聞き手  あの人は節もいいけど、なんであんな化粧してはるんかなと思いましたよ。おしかり受けたら謝りますけど...
米朝  やっぱり、行き先がそういうことを要求する所だったんかな。
聞き手  今から考えるとそんなもんがあったんかいなと思うぐらい、「音頭」がね...(廃れてしまいましたねぇ)
米朝  あの時分に再認識されたんかな。一旦廃れてたもんがあの時期に上がったんですな。
聞き手  よく末子さんが「昔はデロレン、デロレンと言うてた」と言う、ホラ貝と...。そういう意味では歴史をちゃんとふまえた人がいたんですよね、昔は。
米朝  体験として持ってる人がおったんや。

←前回へ 次回へ→
扇子

line
人物紹介 放送内容 お便り トップページへ

line

©ABC 2006
| abc1008.com |